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安芸・吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)

吉田郡山城碑

所在:  広島県安芸高田市吉田町郡山
別名:  なし
国名:  安芸国広島新田藩3万石
国主:  浅野氏
築年:  建武3(1336)年
築主:  毛利時親
築地:  平城
遺構:  曲輪・石垣・堀切・土塁他
交通:  中国道高田IC〜15分
駐車:  登城口他無料駐車場

 (File128:最終登城2012.5.4)

沿革・歴史

 吉田郡山城は、毛利氏が広島城へ居を移すまで居住していた城である。築城当初は単なる地方豪族の城にみられるような砦形式のものであったが、戦国時代に入り、毛利氏が勢力を伸ばし始めるとともに城郭は拡張し、郡山全体に及ぶようになった。

 南北朝時代の建武三(1336)年、毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全体を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。郡山城は北流する可愛川とそれに注ぐ多治比川との合流地点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がる。 遺構は山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡がみられる。

 天文九(1540)年九月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年一月尼子軍を敗退させた。その後、毛利氏はこの城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。天正十九(1591)年輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。

 享保15(1730)年浅野長賢が広島藩の支藩として3万石を与えられ広島新田藩として立藩した。吉田郡山城の麓に吉田陣屋を構え、郡山城の一部は浅野家の火薬庫として使用された。

 

(参考資料:現地看板他)

見どころ・見たところ

見学ルート:
御里屋敷跡〜火葬場跡〜一族墓所〜各曲輪群〜旧城跡
所要時間:約7時間

毛利隆元墓所 毛利隆元墓所
元就の長男で輝元の父。 24歳で家督を相続しました。
永禄期、九州の大友氏と交戦・講和後、尼子氏攻略のため帰還途中発病し、41歳で急逝しました。
毛利一族墓所(洞春寺) 毛利一族墓所(洞春寺)
郡山城内、城下にあったそれぞれの墓を明治二(1869)年に洞春寺跡の元就墓所境内に移葬したものです。
毛利元就墓所(洞春寺) 毛利元就墓所(洞春寺)
中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、郡山城で生まれ郡山城で75歳の生涯を閉じるまで戦乱の日々をこの秋の国吉田郡山城を本拠に過ごしました。
百万一心碑 百万一心碑
毛利元就が、城拡張の際にそれまで慣習としてあった人柱を取りやめ、代わりに「百万一心」と彫らせた石を埋めたと伝わっています。本物は姫の丸壇の礎石となっており、文化十三(1813)年に長州藩士武田泰信が拓本にとり持ち帰ったといわれています。
曲輪群(本丸) 曲輪群(本丸)
郡山山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪です。北端は一段高くなった櫓台になっています。現在は破損が著しい状態となっています。
曲輪群(三の丸) 曲輪群(三の丸)
城内最大の曲輪。土塁や削りだし等によってさらに四段に分かれています。西の段と南の段は石塁でへだて、北の段とも1mの比高差をもたせて石垣で画しています。西の段は周囲を石垣や石塁で囲まれていることもあり、最も新しい時期の遺構と考えられています。(写真は石塁)
羽子の丸 曲輪群(羽子(はご)の丸)
羽子の丸は、釜屋の壇の先端を幅7m深さ3mの堀切で隔て、その先端を利用しています。先端頂部の曲輪から南へ三段、東へも三段、それらを帯曲輪でつなぎ、付曲輪を加えるなど、堅固な造りです。北東方面をのぞむ枢要な位置にあり、要所と考えられています。(写真は堀切)
釣井の壇 曲輪群(釣井の壇)
面積1,000uの長大な曲輪で、基部には石垣がみられます。石組井戸があり、本丸にもっとも近い水源です。現在は埋もれて水が沸いていませんが、掘ればかつてのように水をたたえると思われます。(写真は井戸)
勢溜の壇 曲輪群(勢溜の壇)
十段の大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに大型の壇を四段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、その先端に付曲輪を加えています。この曲輪群の特に尾崎丸・大手方向の防御は厳重で、現在の登山道が当時のものとすれば、勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっています。
満願寺跡 満願寺跡
毛利氏が入城する以前のかなり古くからあり、寺伝によると、天平年代、高僧行基が創建に関わったと伝えられているようです。この寺は毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに萩城内に移っていましたが、現在は防府市にあります。
尾崎丸 曲輪群(尾崎丸)
尾崎丸は本城とは堀切で隔てられた独立的な曲輪群です。中心に最大の曲輪があり、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に二段の小曲輪を配し、さらに下方に小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し守備を固めています。
毛利隆元の居所があったといわれています。

(参考資料:現地看板他)

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